■紙芝居王_第一集第七景
『這い上がった曰くありげな泥沼から』_ver_0.31
「ぬっ、沼の主だぁぁっ!」
悲鳴を上げ、村の子供達が逃げ出す。足がもつれ小太りの少年が転んだ。震える足で立ち上がり、彼は泣きながらまた駆け出す。遅れた少年が気になったお下げの少女が沼を振り返る。泣き叫び草むらを駆けてくる少年の向こうで、暗い沼の縁から飛沫を上げ、茶色い塊が飛び出した。膝丈ほどの草むらに降り立ち、ゆらりと躰を起こしたその泥の化け物が、ヘドロしたたり落ちる両腕を広げ叫んだ。
「こるぁああ! またんかい!」
少女が甲高い悲鳴を上げた。足が竦む彼女を、必死の形相の少年が追い越した。少女も二度と振り向くことなく駆け出した。
「……ったく。泥まみれで困ってる旅人見て逃げ出すやなんて、あのガキ共、どーいう躾されとんねん」
悪態をつきながら、ユトが袖で顔を拭った。曇り空の下、小さな人影達が草原を遠ざかっていく。ねっとりとした不快感に、旅の活弁士は身震いした。袖も泥まみれだったことに、彼女はようやく気づいた。
背後の暗い沼で一つの波紋が広がり、黒く丸い塊が浮かび上がった。凝縮された霧のようなそれは、音もなく水面を漂いながら黒い靄となり、やがて風に揺れる黒衣へと姿を変えた。岸に近づく黒衣の上部に白い胸当てが生まれ、その甲冑の中から仮面の頭が現れた。沼の縁までやって来た白仮面は、静かに草むらへ足を降ろした。
「あ! あんた全然汚れてへんやん。なんでやねん」
相棒に向かい、ユトが非難の声をあげた。人ならぬ繰人(くりと)であるバムザは、黒衣から左腕を一本突き出した。左手には一枚の横長の紙が掴まれていて、そこには長耳古語の一文が認めてあった。
『もう少し待ってから出れば良かったのに』
「なんや。ドロまみれになったんは、うちのせいっちゅーんか!? 大体、こんなとこ放り出されるくらいやったら、あの中洲から泳いだ方が良かったやん」
『……』
バムザは二本目の左腕を突き出して答えた。不機嫌な相棒は、早速くってかかった。
「『点々々点々々』ってなんやねん! んなこと、その仏頂面見たら猿でもわかるわいっ」
『それより後ろ』
「後ろ?」
三本目の左腕を突き出した大柄な黒衣から、ユトが泥滴る髪を揺らせ顔を覗かせた。二人が出てきた背後の沼の中央に、奇妙な泡立ちが生まれていた。それは見る見るうちに大きく音を立ててはじけ始めた。岸辺が微かに震え出し、沼の水面に次々とさざ波が現れた。ユトが顔をしかめて言った。
「勿体ぶった前振りやな。なぁ、バム。なんか出てきたいみたいやけど、どないする?」
『……』
「『点々々点々々』ってあんた、さっきの紙で横着しなや。それよか、あーゆーの。無視したら後々根に持たれるんちゃうかな。もーちょい見とく?」
さざ波の中心が派手に泡立ち始めていた。ユトが斜め上を見上げる。バムザは沼の縁から少し離れ振り返った。成り行きを見守るつもりらしい。泥まみれの小娘がにんまり笑った。
「やっぱそっか。でもヤバい奴やったら、すぐ逃げよーな」
二人の旅人が見守る中、沼の泡立ちは勢いよく水飛沫を上げて弾けた。大きな地鳴りと共に沼から姿を見せたのは、小山のように盛り上がった泥の塊であった。塊の両側に、長い爪を持つ腕のようなものも続いて現れた。絡みつく水草や水苔、突き立つ枯れ枝などをまとわりつかせたそれは、沼の周囲に更なる異臭を放ち始めた。ヘドロを滴らせた泥山の側面に、二つの黒い穴が生まれた。それらは岸に立つ旅人を捉え瞬きした。そして目と思しきそれらの下にもう一つ、大きな黒い穴が広がるや、大地を揺るがすかのような轟音が響き渡った。
「儂の眠りを妨げる奴は、誰だぁぁぁっ!!」
ユトが吹き出した。
「ベタやっ! めちゃめちゃベタやんっ!! ちょっとあんたっ! せっかく出てくるん待ったったんや。もーちょい気の利いた挨拶できんか!?」
「……」
『……』
腹を抱えて笑う相方の肩を叩き、バムザが魔物の沈黙を伝えた。
「だからそれはもーえーっちゅーねん。あぁーあ。わざわざ待って損したわ。ほらバムッ、もー行くで」
予期せぬ相手の態度に虚を突かれた魔物は、きびすを返した二人の背に向かい、再び大声を張り上げた。
「聖地に踏み入った挙げ句、この沼の主の微睡みを破るという愚行を重ねし者達よ。よもやこのまま立ち去ることが叶うなどとは思うまい!」
旅人達は遠ざかりつつあった。一つ息を吸い込むと、沼の主は三度、声を張り上げた。辺りを震わす怒声には、心なしか切実な響きも混じっていた。
「無礼にも背を向け立ち去るというのかっ! ならばこの咎。近隣の村の者共を喰らうことでしか贖えぬなっ!」
旅人達の足が止まった。振り返った小娘が、射竦めるような視線で冷ややかに言った。
「あんたそれ、八つ当たりっちゅーねん。沼の主かなんか知らんけど、構ってもらえんから村人襲おうなんて、知恵の足りん奴のやることやで。捻りのない台詞共々、ほんま頭悪いやっちゃな」
「儂を見て恐れぬばかりか、暴言を吐き続ける愚か者共よ。まずはお前達から喰うてやろうか」
「さっきから聞いてりゃ、喰う喰ううるさいわ。喰うなんてのは生きる為にするこっちゃ。腹立ち紛れにすることやあらへん。脳味噌まで泥詰まって、そんなこともわからんか、このド阿呆!」
バムザが沼の縁まで巨体を伸ばした主に向けて、紙を差し出していた。それに気づいたユトが覗き込む。
「なになに……『説教臭いこと言ってますが彼女、子供に逃げられた上、泥まみれで機嫌が悪いだけなんです。こちらこそただの八つ当たりなので、どうぞお気を悪くなさらないで下さい。眠りを妨げすみませんでした』……ってアンタ、あんなバケモンの肩持ってどないすんねんっ」
草むらに片爪をかけた主が少し動きを止め、ゆっくりと尋ねた。
「……その者は、この沼の主に何かを伝えようとしておるのか?」
バムザの文字が読めなかったらしい。悪戯好きな笑みを浮かべ、ユトが沼の主に明るい声で言った。
「こいつもこー言うとるんや。『可憐な彼女の言う通り。お前のような無様な能なしは初めてだ。とっとと沼底に沈んで、二度と浮かび上がって来るな! くたばれっ!!』やって。正直な奴やで」
バムザは猛烈に首を振った。沼の主は怒り狂い、その巨体を持ち上げた。小高い丘が更に盛り上がり、地平一面を覆うかのような泥山が沼の上に盛り上がった。ヘドロを滴らせて身体を伸ばした沼の主は、灰色の空を背に、ユトとバムザに覆い被さるかのように見下ろした。そんな相手を不敵に見上げ、ユトが言った。
「おっ! さっそくうちらを喰うて、自分の馬鹿さ加減を誤魔化す気やな。これやから世の中の能なし共は進歩せんのやなー。とりあえず、こんなとこまで泥落としに来んな! 余計泥まみれになるやん」
「もはや逃げられまいぞ。この沼の主を怒らせたこと、腹の中でとくと後悔するがいいっ」
今にも襲いかかろうとする沼の主。わざとらしく視線を横に逸らせたユトが、ターバンからゆらゆら飛び出した髪を弄りながら言った。
「大体、一目見てわからんかなー。うちらなんか喰うてもうまないでっ。この黒いのは肉っけないし、杜人(もりびと)なんか丸飲みしても食あたりや」
「今更命乞いか。小者共のしそうなことだ。だがもう遅い。口も悪ければ味もマズそうなお前達だが、村を襲う前の前菜にはなるだろう。覚悟せいっ!」
「あー、覚悟ねぇ。別にしてもええけど。ところでうちら芸人やねん。喰われる前に、一芝居打ちたいなー」
「芝居だと? そんな物で逃がれることなどできまいぞ」
「逃げへん逃げへん。心残りなだけや。馬鹿なあんたにもわかりやすい話にしたるで。こんなへんぴな沼の底に沈んでて、おもろいこと、なーんもあらへんやろ? うちらも芝居見てくれた奴に喰われるんなら、そんなに腹も立たんかもしれんし」
沼の主が僅かに身を引き、問いかけるように言った。
「腕に覚えでもあるような物言いだな」
「当然。さっきからうるさいあんたを黙らせるくらいのことはできるやろなー」
それまでの気のない物言いから少し得意げに話し始めたユト。強者の余裕を見せねばと思ったのだろうか、沼の主は小娘の言葉に乗せられるように言葉を返していた。
「よかろう。ならばその芝居とやら、やってみるがいい。なかなかの見物ならその命、見逃してやらぬでももない。しかしもしそれが取るに足らないものならば……その時は観念するがいい」
ユトが合点したというように一つ手を打って笑った。
「あぁ、そーいう話か。えーで、やったるわい。でももし芝居見た後で、うちら喰う気なくなってたら……その時はあんたこそ、覚悟しぃや。こっちの言うこときいてもらうで」
「よかろう。その威勢がいつまで続くか、見てやろうぞ」
「威勢より、芝居の方、ちゃんと見ときや」
バムザは既に準備を終えていた。絵師は最後に、黒衣から出した講釈台をユトの前に置き、自らは沼に向けられた額縁の裏側に回った。ユトは静かに目を閉じた。沼の辺から大気に向かって耳を澄まし、彼女は語るべき言霊を集め始める。泥まみれの格好とはうらはらの真剣さが、転瞬、張りつめた空気となって辺りに伝わった。懐から汚れを免れた扇子を取り出すと、ユトは景気よく講釈台を一打ち、瞼を開く。榛色(はしばみいろ)の瞳を輝かせ、活弁士は語り始めた。
「ここに語るは『夕霧海王転生譚』……って、……わかるか? 威張って牙を剥きだしするしかできん能なしのあんたにもわかるように、題名かみ砕いたるわ。つまり、夕霧海王とか名乗って威張ってる南の霧の海の魔物が、空前絶後の食あたりを起こす物語や」
「くだらない戯れ言だろう。儂はそんな脅しにはのらんぞ」
「脅しかどうかは芝居を見てのお楽しみっ♪」
活弁士は扇子を二度打ち、講釈を続けた。
それは同じ海に生きるもの全てを飲み込もうとした大喰らいの物語だった。小魚と共に海の水まで飲み干し泳げなくなった大喰らいは、海底を割って地の底へ沈んだ。大喰らいは生死の狭間で、地の底の冥界の門を司る影の神官と問答することになる。
漆黒の世界。山のような影の神官が、赤い目を光らせて大喰らいに問う。
「汝はなぜ、それほどまでに喰らうや?」
「我が巨体を保つ為」
「真にそれだけの為と言えようか?」
「他に何がある?」
「汝は、己が愉しみの為に、小さき者、彼らが生きる海すら飲み込んだ。違うか?」
「……知らぬ」
口を閉ざした大喰らいに、黒い靄のように揺らめく影の神官が、静かに宣告した。
「ならば汝、自ら小さき者として海へ帰り、己が身をもって知るがよい」
「それは嫌だ。徒に飲み込まれるだけの者になどなるものか」
「ならば汝、自らの身体の重みをもちて、更に地の底、冥界へと堕ちるがいい」
「それも嫌だ。我はこのまま、再び光りさす海へ帰ることを望まん」
「ならば汝、堕ちることを拒む者を、永久に変わらぬ者として新たなる海へ帰そう」
「それがいい、それがいい。我は再び海の主として、小さき者共を喰らおうぞ」
「……」
口を閉ざした神官は、無数の小さな影へ散り、黒い世界の果てへと消えた。
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