■紙芝居王_第一集第四景
『新たな門出になるかもしれない袋小路から』_ver_0.32
「な、なんだてめぇらっ! そんな格好で脅しても、俺は何も返さないからなっ!」
強がっていたが、男は明らかに怯えていた。息巻いた声もうわずり震えていた。逆光になって顔はよく見えなかったが、二つの人影は何も言わず、足音もなく迫ってきた。明らかにただ者ならぬ雰囲気だった。真昼の雑踏からの喧噪が酷く遠くに聞こえた。男は荒い息づかいで後ずさった。大通りで老婆からスッたのを見られたらしい。旅の二人組にしつこく追い回された挙げ句の、薄暗い路地裏の袋小路。コソ泥にまで身を落とすハメになった自分の冴えない人生を呪うには、十分な状況だった。
「…!?」
二つの人影は無言で、怯えるスリの真横を通り過ぎた。彼らはまるで、袋小路の壁でも見に来たかのように、行き止まり少し手前の暗がりで立ち止まった。予想外の展開に、表通りへ逃げ出すことも忘れ、男は大小二つの背中を固唾をのんで見守ってしまった。
やがて袋小路の壁を背に振り返る二人組。
大きな人影は、人ならぬ繰人。薄暗がりの中の白仮面が、男を静かに見据えていた。黒衣が音もなく、微かに揺れていた。
もう一方は、年端もいかぬ小柄な娘。表通りから僅かに差し込んでくる薄明かりが、娘のターバンから好き勝手に飛び出した髪を深紅に染めていた。娘は声も出さす、男に向かって不敵な笑みを浮かべた。まるで自分をどう料理しようか品定めされているようだ。そんな風にも思える不気味な笑みに耐えきれず、コソ泥は堰を切ったように、しゃべり出していた。
「な、何がおかしいっ! たかが小娘が、俺を馬鹿にする気かっ!!」
娘にまでからかわれた気になり、男の心はますますささくれ立った。
娘は軽やかだが、あきらかに毒のこもった口調でおもむろに答えた。
「まぁ、ちょっと黙っときや。おもろいもん見せたるから」
「…!?」
ふと気づくと、薄明かりの中、繰人の方が、黒衣から次々と妙な道具を路上に出し始めていた。直方体の木箱。絵の入っていない額縁のようなもの。横長の紙束。筆。水入れ……。拷問道具には見えなかったが、路地裏で黙々と続けられるその作業は、見る者をわけもなく不安にさせる光景とも呼べた。娘の方は、懐から取り出した扇子を開くと、大して暑くもなさそうに優雅に胸元へ風を送る。建物に切り取られた細長い空を見上げ、口笛など吹き始めた。
やがて袋小路の真ん中に置かれた縦長の木箱の裏側に回り込む小娘。その傍らで黒衣から六本腕を広げると、繰人は横長の額縁を男に見せるように構え、動きを止めた。コソ泥は思わず一歩、身を退いた。しかし何も起こらなかった。コソ泥はまじまじと二人組を見た。額縁の中には、一面真っ黒な絵が入っていた。繰人が掲げた角灯が、その絵を闇と感じさせるような、橙色の不思議な淡さで照らし出していた。思わぬ成り行きにすっかり逃げ出すことも忘れ二人を見守る男の前で、小気味良い音を立てて扇子を閉じると、娘はおもむろに語り始めた。
『ここに語るは、隠された王国を探し続けた、ある掃除夫に纏る物語』
小気味良い音を立て娘が扇子を目の前の木箱を軽く打つと、黒衣の繰人は額縁から黒い紙を一瞬にして抜き去った。額縁の中には、夕闇迫るある町並みが描かれていた。繰人が更に紙を抜き去ると、次の光景が現れた。そこには、そそり立つ高い石の建物の狭間を行き来する人波の中、バケツを吊したモップをくたびれた肩にかけて遠ざかる、ある男の背中があった。コソ泥は、その絵の中の男に、奇妙な哀愁と共に、言い知れぬ親しみのようなものも感じた。コソ泥には何故か、遠い記憶の中で彼を知っているような、そんな気がした。物語は続く。額縁の中の男は溜め息と共に、立ち止まった。石塔の合間に沈む夕陽に眼を細めると、彼は誰にともなく、呟いていた。
『「僕ももう随分旅をしてきた。この町で終わりにしてもいいかもしれない……」 人波の中、彼は疲れ切っていた。思い返されるのは、何も見い出せず、何も為し得ること叶わなかった、ただの冴えない人生だった』
じっと額縁の世界に魅入るコソ泥の耳に、娘の穏やかな語りが忍び込んできた。それはその掃除夫が歩んできたつくづく報われない半生だった。娘の語りに合わせ、繰人が次々と絵を替え続けた。掃除夫の思い出が、走馬燈のように現れては消えていった。
彼は、学者だった。魔法使いになることを夢見て、古の賢者達の王国を探し続けたその単純で善良な学者は、何十年も世界中を彷徨い続けた。誰も彼の学説を信じようとはせず、長旅で財産を使い果たした彼に、妻も息子も友人達も愛想を尽かし離れていった。やがて学者扱いされなくなった彼は雇われ掃除夫となり、町から町への旅暮らしを始めた。各地に散逸した古文書や打ち棄てられた遺跡は、彼に何も語らなかった。精霊からの啓示が降りてくることもなかった。それでも彼は学者だった。自身の学説の唯一の信者だった。彼は未だ、自分が信じる王国を一人、探し続けていた。
『そんな彼が訪れたのが大陸最北端の石塔群の町。一日の仕事に疲れ果て安宿に戻った彼は、その『さかさ虹』亭六階の廊下の突き当たりの壁に、淡くきらめく光の門を見つけた。彼には一目でわかった。それこそ、彼がずっと探し続けていた王国への扉であると。探し求めていた物は、諦めかけた途端、目の前に現れた。この地上に未練はなかった。彼は、自分の学説の正しさを知らしめることも忘れていた。ただ、その扉の向こうに焦がれていた。バケツもモップも人気のない廊下に投げ捨て、彼はそのきらめく壁へ、頭から飛び込んだ。すると目の前の視界が真っ黒から真っ白へと変わった……』
「おい、それからそいつはどうなったんだよ!」
目を伏せおもむろに口をつぐんた活弁士に、先程まで怯えていたことも忘れ、コソ泥は思わず叫んでいた。
額縁の中には、一面真っ白な絵が入ったまま止まっていた。繰人が掲げた角灯が、その絵を光と感じさせるような、橙色の不思議な淡さで照らし出していた。
娘はできの悪い生徒をなだめるかのように、扇子で軽く講釈台の端を叩きながら言った。
「うちら別に、コソ泥を追い回してたんちゃうで。今まで、ろくずっぽえーことなかったあんたにも、そろそろ『人生の転機』ってやつがあってもええ思うてな。お告げに来たったんや。ま、大げさに言えば天使みたいなもんかなー」
得意げに胸を張った娘に、コソ泥はあからさまに胡散臭そうに言い返した。
「天使だとぉ? それにしちゃあ、なんか品に欠ける気がするぜ」
「うるさいな。余計なお世話や。それよりほら。そこに飛び込むん決めるのは、あんた自身やで」
道を開けるかのように、二人組がそれぞれ少し身を退いた。薄暗い路地裏の袋小路には、いつの間にか、ぼんやりと輝く入り口のようなものが生まれていた。自分に芝居を見せていた二人には、こんなものが用意できるはずはない、漠然とそんなことを思いながら、コソ泥はまじまじとその不思議な冥い入り口を見つめた。それはまるで、男を誘うかのように、ゆらゆらと光を発していた。我知らず一歩踏み出したコソ泥は、しかし、ふと我に返った。
「おいおい。なんで俺まで、その話の男と同じ、馬鹿なマネしなきゃならねーんだよ」
そう言ってから、コソ泥は何故か、自分が何か大切なものを逃しかけているような気になった。
娘は側の壁に軽く背をもたせかけ、腕組みすると、思い出すかのように目を閉じて言った。
「さっきの芝居の男は、あん時、自分の人生の全てをかけて決めたから、全く別の新らしい道が開けたんやな。あんたは、どやねん。そんな他人の小銭入れにしがみつかなあかんほど、大層な人生やったんか!? この<門>はすぐ消えてまうで。飛び込むチャンスは今だけや」
「…っ!」
今、目の前にある不思議な輝きが自分の為だけにそこにあることは、信じることができた。コソ泥は握りしめていた小銭入れを見た。その使い古された緑のガマ口が、酷く滑稽に見えた。他人の物を散々掠め取ってきた自分が、今、目の前にある自分の物をみすみす見逃すというのも、酷く滑稽に思えた。少し考え込みながら真上に放り上げていた小銭入れを、試しに<門>へと投げてみた。なだらかな放物線を描いて袋小路へ向かったガマ口は、淡い輝きに溶け込むように音もなく消え去った。驚くこともなく頷くと、コソ泥は落ち着いた声で言った。
「……かもな。あんたに俺の人生をとやかく言われたかねぇ。が、今がチャンスだって気にはなってきた。その<門>潜ってやってもいいぜ。その向こうには何があるんだ?」
「夢の国」
娘は一言答えた。コソ泥にはそれで十分だった。<門>は娘の言葉の通り、先程より小さくなった気がした。男は駆けだした。消えたガマ口に続いて、淡い輝きの中へと、頭から飛び込んでいった。
袋小路に鈍い音が響いた。
「アホちゃうか。現実と空想の区別もつかんかなー」
壁の隅で気を失ったコソ泥には目もくれず、ユトは器用に傾けた講釈台をバムザに押し込みながら言った。黒衣の絵師は、無言で道具を片づけていた。
「うちは、なんも乱暴してないでー♪」
相棒の白仮面に、ユトが言った。ニンマリ笑う娘に罪悪感はなかった。片づけを終えたバムザが黒衣の中から白い腕を差し出した。細長い腕とは不釣り合いに大きな掌には、コソ泥が投げた小銭入れがあった。ユトはさも当然と言わんばかりに、肩をすくめて言った。
「ま、ヒトの眼ぇには見えん速さやもんな。後ろ手に扉描いたり、財布パクッたり。そこらのスリより、あんたの方がよっぽどタチ悪いで」
「……」
黒衣の繰人は、相変わらず無言で動きを止めていた。
「小銭入れ一つ取り返すだけなのに、エゲつない退治の仕方しますねぇ。ただ殴り倒すだけじゃ、ダメなんですか?」
共にパムトの町にやってきたカムパネラが、少し先の角から顔を覗かせて言った。振り返ったユトが旅商人に応えた。
「うちら芸人やで。暴力は反対や」
「彼のささやかな希望を騙して踏みにじるような行為は、言葉の暴力って言わないんですか?」
「自業自得って言うんや」
「……」
笑顔で即答する娘の相変わらずな態度に、青年は笑いながら溜め息をついた。ユトとバムザのいる薄暗い袋小路へ歩み寄ると、カムパネラは二人の少し先、突き当たりの壁の隅に倒れるコソ泥を、哀れみを込めて眺めた。
「…なにはともあれ、この人にとってはとんでもない堕天使に目を付けられたものです」
「堕天使……か」
珍しく身に覚えのあるような意外なそぶりに、青年は思いがけず尋ねた。
「あれ? 一文字増やしたのに怒らないんですか?」
「まぁ、色々あるからなぁ。上手いことゆーたほーちゃう」
「……?」
「……」
彼女の真意を尋ねようと、カムパネラはバムザの方を見た。しかし黒衣の繰人の相変わらずな態度に、青年は笑いながら溜め息をついた。
「とりあえずコレ、さっきの婆ちゃんに返しにいこや。それから今夜の宿探し、と。野宿ばっかやと肩こってしゃーないわ。今日こそまともな寝床で寝るでー」
差し出されたままの白い掌から小銭入れを摘み上げると、ユトはその緑の小袋をカムパネラに投げ渡した。
あたふたと受け取った彼の横を通り過ぎ、彼女は口笛を吹きながら表通りへ歩き出した。
芝居道具一式を黒衣に片づけたバムザが、影のように静かにその後に続いた。
カムパネラは、つくづく不思議な二人組の後を追った。
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